世の中、顔か? 「このままの私で大丈夫」って思える自分になるヒント

『世の中、顔か?「このままの私で大丈夫」って思える自分になるヒント』曽和美佑・著

落差の沼に落ちる

『世の中、顔か?』は、YouTuberのそわんわんさんが書いたエッセイだ。「お友達系YouTuber」として20代から40代の支持を集める著者は、活動のなかで、見た目を理由にした炎上や誹謗中傷を何度も経験してきた。本書は、その体験をもとに、ルッキズム(外見至上主義)やSNS時代の生きづらさに悩む人へ向けて書かれた一冊である。本を書いたきっかけは、著者の容姿を否定するポスト「この顔になったら死にたい」という趣旨の言葉に対するアンサーなのだという。

だが、読み終えた今の私の心に残ったのは、著者と自分との間にある「落差」だった。

本書が示すのは、他人の評価ではなく自分の意思で心地よい方を選ぶこと、そして「このままの私で大丈夫」という安心感を自分の手で育てていくことだ。この方向性には全面的に同意する。他人の意見ばかりに耳を傾けず自分軸を持つこと。服やメイクを、誰かに何か言われないための防衛策ではなく自分のために選ぶこと。どれも私が日頃から大切にしたいと考えている生き方そのものだった。

それなのに、ページをめくればめくるほど、私はズルズルと沼に飲み込まれていくようだった。著者の考え方に共感するほど「この人と私は、何が違うのか?なぜそう思えるんだろう」と、スタートラインの違いを突きつけられた。

自信の根源はどこにあるのか

まず圧倒されたのは、著者のそわんわんさんが持つ行動力と自己肯定感だった。YouTubeの開設、テレビ番組のオーディションへの挑戦、プラスサイズ誌への応募、自らを売り込む企画書の持ち込み。私と近い体格の人が、堂々と人前に出て挑戦していく。一方の私は、今の体型で前に出ることに強い抵抗があり、表に出たくない、影に隠れていたいとさえ思ってしまう。その姿勢の差に圧倒されたのだ。

著者は、まず自分を好きになり、自分を「可愛い」と定義することで世界が変わると説く。かつて「ブス」を売りにしていた時期があり、それをやめた経緯や、高校時代のアルバイトで「最初は嫌われていても最後には好かれると思えていた」という体験も語られる。

「自分の捉え方を変えれば世界の見え方も変わる」という理屈は、よくわかる。けれど、自分に「可愛い」というラベルを貼ることは、私にはあまりにもハードルが高い。そして本当に自分をブスだと思い詰めていたなら、「ブス」を売りにすることすらできないのではないか、と私は思ってしまう。

著者がどれほど過去の葛藤を語っても、すでに強固な自己肯定感(あるいは、本人が語る世間への鈍感力)の上に立っているように、私には見えてしまう。私が抱いたのは羨望というより、「どうすればその立ち位置に行けるのか」という疑問だった。本当に知りたかったのは、その「自信の根源」だ。

著者はその背景として、家族との会話がなく、髪を染めても母親が気づかないほど関心を向けられていなかったという生い立ちを明かす。気にするべき「他人」が当時の世界にいなかったため、世間に鈍感なまま自分でいられたのだという。

私は、自信の土台には「親からの十分な愛」があるのだろうと考えていた。だからこの記述は意外だった。しかし、これを読んでも著者の持つ圧倒的な自信のすべてが説明されたとは思えず、疑問は残ったままだった。

違和感が重なる

さらに本書は、「二重のほうが可愛い」「痩せているほうがいい」という価値観を、コンプレックスを煽って商品を売る社会が作り上げたマーケティングだと説明する。確かにその側面はあるだろう。

けれど私は、美容広告など知らない小学2年生のときに「自分は可愛くない」と知った。1999年、携帯電話(それもガラケー)がまだ今ほど普及しておらず、SNSもなかった頃の話だ。

当時、小学生の間では文通が流行っており、隣のクラスの恵理ちゃんに手紙を届けに行くのが放課後の習慣だった。恵理ちゃんは、いつ見ても可愛い。そう思って顔をまじまじと見ると、まぶたに私にはない1本の線があった。そして私は気づいてしまったのだ。自分が可愛いと思う子には、必ず目に1本の線があることに。

広告を見ていなくても、他人がいる限り比較は生まれる。私は実体験から、この価値観がマーケティングだけで説明できるほど単純な話だとは思えないのだ。

また、本書には「健康になれると宣伝するより、痩せる、可愛くなれると宣伝したほうが売れる」という趣旨の話もある。しかし、何が響くかは年齢層やターゲットによって違うはずだ。20代に訴求するなら「可愛くなれる」「痩せる」が刺さるかもしれないが、30代以降は「健やかに痩せる」のほうがはるかに魅力的に映るのではないか。

そして「好かれたいと思って頑張るのは間違いで、他人の気持ちを変えようとするのは傲慢だ」という趣旨の主張にも、素直にはうなずけない。誰かに好かれたい、よく見られたいと願う気持ちも、自発的に生まれる自然な感情ではないだろうか。他人の気持ちは変えられないにしても、自分がよりよく生きるための手段を傲慢と言われてしまうと、とても悲しくなる。

救いを求めた先で残った傷

葛藤を抱えて読み進めた終盤で、著者は、自分が満たされる方法を見つけてほしいこと、悲観的になっても不幸を武器にしないでほしいことを書く。そして、自分は27歳になり、顔について悩む段階を確実に抜けたとも述べている。

だが、満たされる方法がわからないからこそ、私は苦しくて立ち尽くしているのだ。不幸を武器にして誰かに訴えたつもりはない私にとって、「武器にするな」という言葉は鋭利な傷になる。35歳になっても容姿の葛藤から抜け出せない私には、27歳で脱却したという記述が「いつまでそんなことを言っているのか」と突き放されたように、一種のマウントのようにすら響いてしまった。著者にその意図がないことは分かっていても、だ。

本書は、著者に向けられた容姿攻撃のSNS投稿に対するアンサーとして書かれたエッセイだ。そこに私は具体的な解決策を求めすぎたのかもしれない。それでも、帯を見て「見た目に悩む人に寄り添ってくれる」と信じて手に取った私にとって、この本は著者の圧倒的な強さと自分との距離を思い知らされる、ただ読むのが苦しい読書体験になった。

自分軸を持つ生き方は、とても素晴らしいことだ。けれど、どうしても自分を好きになれない私が一番知りたかったのは、自分を好きだと思えるようになるまでの、泥くさい道のりだ。著者の放つ光に感心しながらも、その隔たりにひとり取り残され、沼に沈んでいくような感覚が今も拭えない。