「見た目が9割」をどう生きる

『「見た目が9割」をどう生きる』
中野信子/りんたろー。・著

美容の居心地の悪さ

「人は見た目で判断してはいけない」――そう言われる一方で、私たちは日々、外見によって評価され、ときに扱いまで変えられている。

『「見た目が9割」をどう生きる』は、読みやすい対談形式の一冊だ。ルッキズムを単なる「悪」として切り捨てるのではなく、人は見た目の影響から完全には自由になれないという現実を前提に、それとどう付き合っていくかを問いかけている。

本書のなかではいくつかの研究が紹介されるのだが、私が特に注目したのが冒頭の顔の魅力度と脳の反応に関する実験だ。魅力的だと評価された顔を見たとき、脳の特定の部位が反応する。本書はこれを「身も蓋もない」話として語る。人が見た目で判断してしまうのは、気分や思い込みではなく、脳に埋め込まれた仕組みでもあるのだ、と。

これは私にとって、決して軽く読み流せる内容ではなかった。そこに書かれていたのは、遠いどこかの社会問題ではなく、私自身がこれまで皮膚感覚で覚えてきた視線や息苦しさそのものだったからだ。読み終えて心に強く残ったのは「美容にはいつも、どこか居心地の悪さがつきまとう」という感覚だった。

努力するほど、価値が下がる美容

本書は、美容をめぐる社会の根深い矛盾を指摘する。人は周囲から「綺麗であること」を求められる。しかし、綺麗になるために必死で努力している姿を見せると、途端に「痛い」「そこまでするなんて」と冷ややかな目を向けられる。美容は多大な努力を必要とするのに、その努力の痕跡が見えた瞬間に価値が下がってしまう。

この箇所を読んだとき、自分の痛いところを正確に言い当てられた気がした。綺麗になりたい気持ちはある。今より少しでもマシになりたいとも願う。けれど、そのために自分がどんな努力をしているかを誰かに知られるのは恐ろしい。頑張らなければ現状を変えられないのに、頑張っている自分は見せたくない。「頑張らなければ綺麗になれない」という現実を直視したくない。

しかも、努力すれば「必死」と笑われ、美容整形などで劇的に変えれば「ズル」と叩かれ、かといって何もしなければ「努力不足」「自己管理ができていない」と見なされる。本書は美容整形が「ズル」と批判される理由を、顔が一種の「通貨」のように扱われているからだと説明していた。他人の容姿という数値で価値を測りながら、その額面を自分で書き換えることは許さないのだと。

どの選択肢を選んでも出口が塞がれているのだから、居心地が悪くなるのは当然ではないだろうか。

希望には出口がない

そんな袋小路の中で、本書が希望として示すのが「表情」だ。冒頭の実験には続きがあり、容姿の魅力度が低いと評価された人でも、笑顔になると、魅力的な顔を見たときと同じような脳の反応が起きたという。メイクで顔を作り込むよりも、いい笑顔のほうに救いがある、という流れで語られている。顔を大きく変えなくても、魅力を伝える余地がある。整形やメイクに頼らずに届く道があることに、救われる人もいるだろう。

それでも私は、そこに救いはないと感じる。そもそも私は、自分の表情を、顔を、誰かに見られること自体が苦しいのだ。

他者の視線そのものが脅威になっている人にとって、笑顔を見せることは、自分をさらに無防備に差し出す行為になり得る。笑顔に魅力を引き出す力があることは、きっと本当なのだろう。それでも、外見で傷ついてきた人にまず必要なのは、笑えなくても、感じよく振舞えなくても「そこにいていい」と思える安心感なのではないだろうか。

美容は社会との境界線

見られることが苦しいとき、何をどこまで見せるかは、切実な問題になる。ここからは、本書を読んだうえでの私自身の考えだ。

髪型やメイクを変えることは本来、心が躍るものであり、いつもと違う自分を遊ぶ楽しさがあるはずだ。ただ、その動機が「誰かに選ばれたい」「他者からよく見られたい」という評価軸だけに支配されたとき、美容は一転して自分を追い詰める刃になる。SNSを開き、タイムラインに流れてくる誰かと比較し続ければ、なおさらだ。

一方で、美容を「100%自分のためだけの自己満足」として語ることにも、私は少しの違和感を覚える。綺麗になりたいと願う気持ちの奥底には、誰かに認められたい、軽んじられたくない、二度とあんな風に傷つけられたくないという、防衛の本能が混ざっているのではないだろうか。人が脳のレベルで見た目に反応してしまう以上、美容を社会の視線から完全に切り離すことはできない。

だとすれば美容とは、社会から向けられる評価の視線をどこまで受け入れ、どこから先は「踏み込ませない」と拒むのか、自分なりの境界線を何度も引き直す作業なのかもしれない。

「居心地の悪さ」も認める

本書の提示する結論は、見た目が持つ影響力を正しく知ったうえで、それに自分の人生を奪われすぎないように生きる、ということなのだろうと私は捉えた。

本を開く前の私は、この居心地の悪さを消し去りたくて「美容ライターである以上、美容を楽しいものであると肯定し、好きでい続けなければならないのではないか」と焦り、そんな矛盾を抱える自分をどこかで疑っていた。けれど、この居心地の悪さは、私が間違っているから生まれるのではない。美容があまりにも社会の評価軸と密接に結びついてきたこと、そしてその強大な視線と自分との間に必死で線を引こうとしていること。そこから生じる軋みなのだと思う。

見た目を変えようとすれば、また誰かに何かを言われる怖さは消えない(「誰もお前のことなんて見てないよ」と自分に言い聞かせる瞬間はあるにしても、だ)。それでも、居心地の悪さを完全にゼロにすることはできなくても、それをどこまで受け入れ、どこから距離を置くかは自分で選ぶことができる。私はこの居心地の悪さを無理に拭い去るのではなく、そのまま抱えながら、自分の顔や身体と生きていくほかないのかもしれない。

Discover