人は見た目が9割/やっぱり見た目が9割

『人は見た目が9割』『やっぱり見た目が9割』
竹内一郎・著
写真には写らない本当の魅力
友達と二人で遊んでいたとき、男性二人に声をかけられたことがある。人数は2対2。なのに、会話は友達にしか向かわない。質問も、視線も、相槌も。すべて彼女だけに向けられる。その瞬間、私は隣に立っているだけの「空気」になった。声をかけてきたのは向こうなのに、私は話しかける必要のない人として扱われる。誰に興味があって、誰にはないのか。言葉にされなくても、嫌というほど伝わってくる。
こうした経験を重ねると、「人は結局、見た目なのだろうか」と考えてしまう。
そんな私が今回手に取ったのが、竹内一郎さんの『人は見た目が9割』と、その続編『やっぱり見た目が9割』だ。タイトルだけを見ると、容姿の美しさが人間関係を左右するという、身も蓋もない話のように思える。しかし、著者が論じている「見た目」は、顔立ちの美醜だけを指すものではない。表情や姿勢、仕草、視線、声の調子、会話の間。私たちは言葉以外のさまざまな情報から、相手の印象を形づくっている。
本書を読みながら、私は過去に経験した容姿による扱いの違いや、夫との出会いを思い出していた。
そして、SNSで繰り返される外見の比較についても、少し違う角度から考えるようになった。
「見た目が9割」≠「顔の美醜が9割」
本書の中心にあるのは、言葉以外の情報によって行われるコミュニケーション、いわゆる「非言語コミュニケーション」だ。
私たちは誰かと会話するとき、言葉の意味だけを受け取っているわけではない。話を聞くときの目線。好きなことを話す瞬間に変わる表情。何気ない仕草や、ふとした沈黙。同じ言葉を口にしていても、声の調子や表情が違えば、相手に伝わる印象は変わる。つまり、本書でいう「見た目」とは、静止した一枚の写真に写るものではなく、人と関わる時間の中で伝わってくる情報も含んだものなのだ。
ここに、私が普段考えているルッキズムとの大きな違いがある。
容姿の美醜によって人を評価したり、不利益な扱いをしたりすることと、表情や振る舞いから相手の印象を受け取ることは、同じ「見た目」に関わる話でも、分けて考える必要があるのではないだろうか。
人の魅力の決め方
少し前から、SNSでは「ルッキズム風刺画」と呼ばれるイラストが話題になっている。
二人の女性が並び、一方には1時間のメイクと高価な化粧品、もう一方には20分のメイクとプチプラの化粧品という説明が添えられている。そこから伝わってくるのは、「どれほど努力しても、生まれ持った美しさにはかなわない」というメッセージだ。
私が見た投稿では、このイラストが実在する人の写真にも重ねられていた。「リアルルッキズム風刺画」と揶揄するようなコメントも見かけた。風刺画においては、右側が「生まれ持った美しさで勝負できる人」、左側が「努力しても及ばない人」を描いている。本来はイラストの「左右」を示していただけの『左側』という言葉が、いつの間にか「頑張っても届かない人」を指す言葉になっているかのようだった。
この絵に傷つく気持ちは分かる。似たような扱いを受けた経験があれば、単なるイラストとして見過ごすことはできない。だから私は、「見た目だけで判断する人なんて、気にしなくていい」と簡単には言えない。気にしないで済むのなら、こんなに心は痛まない。
ただ、『人は見た目が9割』を読んだあとでは、この風刺画が示す「見た目」の範囲が、ひどく狭いものにも思えてくる。
写真を並べれば、どちらの顔が好みかという評価は生まれる。そこに優劣をつける人もいる。でも、一枚の写真だけで、その人の居心地や雰囲気まで分かるだろうか。声の心地よさ。会話のテンポ。ふと訪れる沈黙や、笑い出すタイミング。そうしたものは、実際に言葉を交わし、隣に座り、同じ時間を過ごして初めて伝わってくる。
著者が取り上げる非言語コミュニケーションという視点は、写真だけで人を評価することの限界にも気づかせてくれた。
相手によって評価が変わる
私は独身時代、キャバクラで働いていた。お客さんは、お金を払ってまで気に入った女性を指名する。そこは、男性たちの好みが、言葉以上にはっきりと行動に表れる場所でもあった。
フリーのお客さんの隣に座ったとき、あからさまに「お前はいらない」という態度を取られることがあった。話しかけても、完全に無視。他の子とは普通に話すのに、私とは一切口をきいてくれない。ろくに話す前から拒まれると、外見がその人の「合格点」に届いていないのだと、嫌でも感じてしまう。もっと外見が美しかったら、こんな態度は取られなかったはずなのに、と。
一方で、私を気に入って指名してくれるお客さんもいた。拒絶された経験だけでは語れないほど、よいお客さんとの出会いもあった。同じ顔で、同じ声で、同じ私として接している。それなのに、相手が変われば、評価も扱いもまるで違う。
そんなお客さんの一人が、今の夫だ。
私は夫に、何度も聞いたことがある。どうして私を指名してくれたのか、と。夫は、外見もある程度好みだったと言う。でも、それ以上に繰り返し話すのは、一緒にいるときの居心地のよさだ。私と過ごす時間は楽で、居心地がいい。今でも聞くたびに、そう伝えてくれる。しつこいくらい私が聞くから、というのもあるけれど。
私は、自分の何がその居心地につながっていたのか、うまく説明できない。接客としての「魅せ方」は計算していた。でも、「居心地」まで計算していたわけではない。
本書を読んで、夫が感じていた居心地のよさも、私自身が意識していなかった表情や仕草、会話のテンポなど、さまざまな要素から生まれていたのかもしれないと思った。ただ、これを「容姿ではかなわなくても、内面を見てくれた」という美談にはしたくない。夫が魅力を感じたのは、私の内面だけではない。外見も、声も、振る舞いも、一緒に過ごす時間も含めた、全体としての私だったのだろう。
私自身もまた、誰かに対して「オーラがある」「雰囲気が好き」と感じることがある。その理由を細かく言語化するのは難しいけれど、顔立ちだけで判断しているわけではない。本書が扱う「見た目」という概念は、そうした言葉にならない魅力を考える手がかりにもなる。
会う前に選ばれる現実
もっとも、本書を読んで「顔の美醜だけが重要なのではない」と理解できたとしても、現実には解決できない問題が残る。会えば分かる魅力があるとして、そもそも会う機会を得られなかったら、どうすればいいのだろう。
写真が出会いの入口になるマッチングアプリや婚活では、この問題を避けて通れない。写真やプロフィールを見て関心を持ち、マッチングして初めて会話に進む。そんな仕組みの中では、一緒にいる居心地を知ってもらう前に、やり取りの機会そのものを失うことがある。
会えば分かるかもしれない。話せば印象が変わるかもしれない。でも、その「会えば」「話せば」に、たどり着けない。だから、写真映りに力を入れる人に対して、「そんなところばかり頑張らなくていい」とは言い切れない。その努力には、「出会いの入口を通るため」という、極めて現実的な理由があるのだから。
私と夫の場合は、同じ時間を過ごす機会があった。夫は、私の外見がある程度好みだったうえで、一緒にいる居心地のよさを感じてくれた。
でも、もし写真だけで判断する出会い方だったら、私たちはどうなっていただろう。むしろ、私のほうが夫を選んでいなかっただろうし、そもそも私のほうが話す機会さえ作らなかったかもしれない。
私もまた、選ぶ側に立てば、写真だけで相手を見送り、実際に過ごせば感じられたはずの魅力を、知らないまま終わっていた可能性がある。写真だけでは伝わらなかったものが、同じ時間を過ごしたことで伝わった。私たちの出会いには、そういう側面もあったのだと思う。
ここで改めて考えたいのが、本書のタイトルにある「見た目」という言葉だ。第一印象の段階で受け取れる情報と、継続的なコミュニケーションの中で受け取れる情報は、必ずしも同じではない。非言語コミュニケーションが重要だからこそ、それを十分に交わす機会すらないまま、相手を判断しなければならない現実がある。そして、会う前の評価と、会ってからの評価は、分けて考えてもよいのではないだろうか。
自分への評価を「立体」にする
この本を読んで、私が最も考えさせられたのは、自分自身の魅力をどのように評価するかということだった。
写真は比較しやすい。「こっちのほうが好み」と判断しやすいし、その視線が自分自身に向けば、気に入らない部分も簡単に見つかってしまう。一方で、自分といるときに相手が感じる「居心地」は、鏡をのぞいても、何枚写真を撮っても分からない。私自身、夫に言われて初めて意識した部分だった。
目に見える欠点ばかりを直そうとして、目に見えにくい魅力を、存在しないものとして扱ってしまう。それでは、自分自身への評価も偏ってしまうのではないだろうか。
もちろん、写真に写る自分を整えることをやめろと言いたいわけではない。外見を磨くことで自信がつくこともある。実際に、出会いの機会が広がることもあるだろう。ただ、本書を読んで、写真の中で欠点を減らすことだけを、自分磨きのすべてにすることには違和感を覚えた。
私たちが実際に生きている時間には、写真に残らない自分のほうが、ずっと多い。誰かと笑い、言葉を交わし、ときには黙って隣にいる。その時間の中でしか伝わらない魅力も、きっとある。
ただ、本書のいう非言語コミュニケーションの重要性は、受け取り方によっては、私たちに新たなプレッシャーを与えるものにもなり得る。容姿だけでなく、表情も、姿勢も、仕草も、話し方も。すべてが人からの評価に関わるのなら、結局、私たちは何もかも磨き続けなければならないのだろうか。
私は、そうは考えたくない。
そもそも、私が意識して作っていたわけではない居心地のよさを、夫は魅力として受け取ってくれた。反対に、どれだけ接客としての振る舞いを整えても、第一印象が好みのゾーンではないからという理由で私に関心を持たないお客さんもいた。
他人が自分をどう評価するかは、完全にはコントロールできない。誰かに選ばれることも、選ばれないこともある。けれど、他人からの評価を、どこまで自分自身の価値として受け入れるか。そこには、まだ考える余地があるはずだ。
一枚の写真で誰かに選ばれなかったとしても、それは、その人と過ごす時間まで評価された結果ではない。まだ見せていない表情も、まだ交わしていない言葉も、まだ知ってもらっていない自分もいる。知られていない部分まで、否定されたことにはならないはずだ。
自分磨きは、平面ではなく、立体で。
誰かの目に映った容姿だけではなく、人と関わり、時間を重ねる中で見えてくる、全体としての自分にも目を向けてみたい。そして、誰かを評価する立場になったときにも、写真には写らないその人の魅力があることを、忘れずにいたいと思う。