つまり、それがルッキズム ~23の事例と解説~

『つまり、それがルッキズム ~23の事例と解説~』
前川 裕奈 /ウィルソン 麻菜・著
ルッキズムは悪なのか
ルッキズムは悪なのだろうか。外見によって人の価値が決められたり、容姿を理由に不当な扱いを受けたりすることは、決して望ましいことではない。しかし、外見に悩み、自分を変えたいと願う気持ちまで否定されるべきなのだろうか。
『つまり、それがルッキズム』(前川裕奈/ウィルソン麻菜・著/講談社)は、日常に潜むルッキズムを23の事例と解説を通じて考える入門書である。何気なく使っている褒め言葉や容姿に関する発言、SNSや美容整形など、身近な問題から外見至上主義について問いかけている。
本書を読んで、共感する部分は多かった。私たちが何気なく使っている言葉や、美しいと感じる基準が、知らず知らずのうちに誰かを傷つけているかもしれないという指摘には、同意するものも多い。本書は、個人の選択を尊重しながら、その背景にある社会の価値観を問い直そうとしている。その姿勢には、私も共感している。
ただ、本書の立場が美容整形を選ぶ人の意思そのものを否定しているわけではないと理解してもなお、自分自身も長年外見に悩み、美容ライターとして美容整形を検討する人たちの悩みに向き合ってきた立場からすると、社会構造の問題を考えるだけでは、どうしても答えの出ない問いが残る。
すでに外見に悩み、何年も、あるいは何十年も葛藤を重ねてきた人に対して、私たちは今、何ができるのだろうか。たとえその苦しみがルッキズムという社会の価値観によって生み出されたものだったとしても、今、その社会のなかで生きている人がいる。社会の価値観が変わるのを待つ間も、その人の人生は続いていく。
外見で人の価値を決めることは確かに人を傷つける
「かわいいね」「痩せたね」――褒め言葉のつもりで発した一言が、相手を傷つけることもある。何気ない言葉の積み重ねが、特定の外見を「美しいもの」とする価値観を強めてしまうこともある。本書が取り上げるこうした問題には、私も強く共感した。
広告や美容産業が、容姿に対する不安やコンプレックスを刺激し、消費を促している側面があることも否定できない。本来気にする必要のなかった部分を広告によって意識させられ、いつの間にか改善しなければならないと思い込んでしまう。SNSを開けば、理想とされる顔や体形が次々と流れてくる。私たちの「美しくなりたい」という気持ちは、本当に自分自身の望みなのだろうか。それとも、社会や広告によってつくられたものなのだろうか。
美容整形を選ぶこともルッキズムに加担することになり得るのか
実際に美容整形を検討している人は、どのような思いで施術を選ぼうとしているのだろうか。費用、周囲の反対、痛み、失敗した場合の後悔、周囲の目――一人ひとりに異なる葛藤がある。特に未成年や学生の場合、保護者の理解や家庭の経済状況にも左右され、「変わりたい」と願ってもすぐに施術を受けられるわけではない。大人になってからも、何年、何十年と迷い続ける人がいる。私自身も、その一人だ。
もちろん美容整形にはリスクがある。ひとつのコンプレックスを解消しても、今度は別の部分が気になることもあるだろうし、誰にでも勧められるものでもない。それでも、長い時間をかけて悩み、怖さや不安を抱えながら施術を選び、コンプレックスが軽くなったり、自分を少し好きになれたりした人もいる。そうした経験まで、広告によってつくられた欲望や美容産業の利益のための消費として説明してしまってよいのだろうか。
確かに、私たちの美意識が社会の価値観から完全に独立しているとは考えにくい。だが、社会の影響を受けているからといって、その人が長年抱えてきた苦しみや、施術によって救われたという実感まで否定できるわけではない。社会構造を批判することと、その社会のなかで生きる個人の選択を尊重することは、分けて考える必要があるように思う。美容整形を選ぶことが結果として特定の美の基準を強める可能性はあり、その影響は無視できない。ただ、その社会の価値観によって長年苦しんできた人が、自分自身を変えることで救われる場合もある。
美容広告はすべて悪者なのか
私がこう考えるのは、自分自身が外見に悩んできた当事者であり、同時に美容ライターとして美容クリニックのSEO記事を書くことを生業にしているからでもある。美容整形を検討している人は、単に「かわいくなりたい」と検索しているわけではない。腫れが長引いたらどうするか、左右差が生じたら修正できるか、失敗した場合元に戻せるか――細かな悩みが検索キーワードに表れている。
私は、そうした一つひとつの疑問を拾い上げ、必要な情報は何かを考えてきた。クリニックの訴求とは正反対の、施術のデメリットやリスクを説明する記事を書くこともある。読者が納得して判断するために必要な情報は、仕事を失う可能性があったとしても届けたい。
もちろん美容広告のなかには、コンプレックスを過度に刺激したり、リスクを十分に伝えていなかったりするものもあり、そうした広告は批判されるべきだと思う。ただ、美容広告そのものを悪者にすることには賛同できない。すでに外見の悩みを抱え、解決方法を探している人がいる以上、施術の効果だけでなく限界やリスクについても理解し、判断するための情報発信には役割があるはずだ。
一方で、正確な情報を届けていればそれで十分だとも思わない。例えば二重整形のリスクを正しく説明した記事であっても、一重まぶたを改善すべき悩みとして扱い続ければ、一重であること自体が望ましくないという印象を与えてしまうかもしれない。読者の悩みに寄り添うことと、新たなコンプレックスを生み出さないこと。その両方を意識しながら、情報が何を問題として提示し、どのような選択肢を示すのか、発信する側には考える責任があると思っている。
今苦しんでいる人はどうすればいいのか
私は、ルッキズムによって苦しんできた。外見にまつわる悩みが、いじめや不登校、さらには命を絶とうとするほどの苦しさにつながることがあるのも、自分自身の経験から知っている。だからこそ、外見によって人の価値を決める社会のあり方を変えていく必要があると思っている。
ただ、すでに傷ついている人にとって、「外見を気にしなくてもよい社会をつくろう」という言葉や行動だけでは、今抱えている苦しみを解消できない現実がある。時とともに様々な価値観に触れてありのままの自分を受け入れられるようになる人もいれば、メイクやファッションで外見を好きになれる人もいる。そして、美容整形によって長年抱えていたコンプレックスが軽くなる人もいる。外見を変えたからといって他人からの評価や差別がなくなるわけではないが、本人が十分な情報を得たうえで選ぼうとするのであれば、その意思も尊重されるべきではないだろうか。
「そのままでいい」という言葉が、誰にとっても救いになるとは限らない。外見を変えずに生きることも、変えることも、本人が望むのであれば私はその選択を尊重したいし、応援したい。誰かに変化を強いられることがあってはならないし、変わらないことを選んだ人が不利益を受ける社会であってもならない。社会の価値観を変える取り組みと、今まさに苦しんでいる人への支援は、どちらか一方を選ぶものではないと思う。
ルッキズムの何が「悪」なのか
改めて、最初の問いに戻りたい。ルッキズムは悪なのか。
私が問題だと思うのは、外見を気にすることでも、美しくなりたいと願うことでもない。特定の容姿を美しさの「正解」とし、その基準に当てはまるかどうかで人の価値を決めてしまうことだ。外見を変えたいという個人の願望と、外見によって人を評価する社会のあり方は、同じものとして扱うべきではない。
容姿を理由に差別されたり、望まない変化を求められたりする社会のあり方は、変えていく必要がある。けれど、ルッキズムをなくそうとするあまり、今まさに外見に悩み、そこから抜け出そうとしている人の選択まで否定することがあってはならない。むしろ、「ありのままでいい」という価値観を新たな「正解」として押しつけることにも慎重でありたい。「変わらなくてもいい」という言葉に救われる人がいる一方で、「それでも変わりたい」と願う人もいる。その意思が社会や広告の影響をまったく受けていないとは言い切れないが、社会の影響を受けていることと、自分自身の意思で選択することは、必ずしも矛盾しないはずだ。
『つまり、それがルッキズム』は、私にとって共感と違和感の両方を覚える一冊だった。すでに外見に悩んでいる人の苦しみと、その人が選ぼうとしている解決方法を、社会構造の問題とどう結びつけて考えればよいのか。その問いに、私はまだ答えを出せていない。
自分が変わることと、他人にも変わることを求めることは違う。美容整形によって自分自身を好きになれたとしても、同じ選択をしない人や、施術前の自分と同じ容姿の人の価値まで否定する必要はない。ただし、その経験を肯定的に語ることが、結果として特定の美の基準を強めてしまう可能性はある。だからといって、美容整形を選んだ人が自分の経験を語ることを諦める必要があるとは思わない。
個人の経験を尊重することと、その経験が社会に与える影響を考えることを、どちらか一方で終わらせたくない。外見を変えなくても自分らしく生きられる社会であること。そして、外見を変えたいと願う人も、その意思を尊重されること。「変わらなくてもいい」と「変わりたい」――どちらか一方を正解とするのではなく、どちらも否定されない社会であってほしいと心から願う。